昭和四十九年十月七日 朝の御理解 第二十一節
御理解 第二十一節 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ 。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カラテラ油いっぱいあっても 、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり 。」
昨日、朝の御理解の後に、桜井先生が、こういうお届けをなさいました。
今日は、たまたま、御祈念に遅く時間がちょっと遅れました。いつも早くまいりますので、いつも前の方に座っておる。それで、後ろの事などは、全然気が付きませんでしたけれども、時間を遅れて来ましたので、御広前いっぱいの参拝者。後ろから拝まして頂いて、それこそ胸がわくわくするような感動を覚えましたと、こう言うのです。昨日は、とりわけ日曜でもありましたから、遠隔地からの朝参りもあっておりましたから、本当に御広前がいっぱいでしたですね。それを見ただけで、心がわくわくするような感動を覚えたと。
それと同じような事を、昨日、昼も言われた方がありました。
甘木の教会の信者でございますが、初めてお引き寄せを頂いたが、お盛りという事は聞いとりましたけれども、本当に初めてお参りしてみなければ分かりませんでしたと言うて、お届けがありました。
丁度昨日は、勿論日曜でもありましたけれども、伊万里から団体参拝があっとりました。昨日は、伊万里の御信者さん達が全部お参りして来とります。それに、あっちこっちからの家族連れでのお参りがあっとったから、本当に御広前がいっぱいだったんです。
午後の奉仕の時、そういう時に、いわば、参り合わせた桜井先生ではないけれども、その御比礼によくするという事。御比礼にあうという事。それこそ、沈んでおった心も生き生きしてくる。躍動してくる。
私は、今日の御理解を頂いて、「火がともらねば世界が闇なり。」と。今こそ、私は、世界が闇の夜であると思います。どういう点から見ても、本当に信心のともし火。所謂、信心の光がないならばやっていけない。言うならば、手探り的な生き方で、それこそ闇の夜ですから、真っ暗です。ですから、今にも何か怖いものが飛び出して来はせんだろうかというような、所謂、恐怖の心。今、地球上に住んでいる人間は皆、そういうような状態の時ではなかろうかと、こう思う。
これも、昨日、ある教会の先生ですが、お参りしてみえて、今の金光教の発展性のない生き方。言うならば、衰微とまではいかなくても、全然堂々《巡り》で、発展してないという事をです。本部の、言うならば、方針というか、やり方、あり方が間違っている。今、合楽まで言うておられる。合楽示現活動といったような生き生きした活動に、生き生きしたおかげ。言うならば、奇跡の印が見えるほどしのものが、今の本部、中央に欠けておるからだと。もう本当に、言うなら、愛教精神ですねぇ。教団の事を思われるから、そういう批判、非難的な事を話されたんだと思う。私も、ある意味で同感致しました。
それで、どうでも一つ、合楽示現活動というのが、中央本部に向けられなければならない。本部が、合楽示現活動を採用なさらなければならない。そういう生き方を。ところが、合楽という言葉。合楽という字句が、やはり抵抗を感じるらしい。
これは、この頃から、青年教師の会合が、ここで夜、信心研修を。それも、合楽示現活動というのが、私の話を聞いて下さるテーマでもありました。それで本当に合楽の信仰を頂こう。分かろうという人達の集まりでございましたにも関わらずです。合楽示現活動という、この合楽という事が、やっぱり抵抗。さわるわけです。合楽教会だけが発展すれば良いといった風に聞こえるらしい。ところが、実は、合楽教会という意味じゃありません。合楽教会示現活動じゃないですもんね。合楽示現活動なんです。
合楽という事は、皆さんが度々お聞きになるようにです。本当におかげを頂いておるという事。本当にお道の信心によって、この信心さえ続けていきゃ、必ず真善美の世界にも、貧、病、争ですね。争いのない世界。貧乏のない世界。病気のない世界にも、住み替える事ができるという確信を持ち、同時に、そういうおかげを頂いておるという自覚にたたせて頂いて、その自分の頂いておるおかげをふんまえての活動でなからなければならないと。でなかったら、意味がない事になる。自分がおかげを受けておるという事。言うならば、極楽のおかげから、もう一つ向こうに、合楽のおかげがあるという事。いや、合楽の信心があるという事。それは、自分がおかげを頂いておるという事ではなくて、こういうおかげを、人にも頂いてもらいたいという願い。言うならば、神様の願い。神様が願っておられるところの。所謂、神願成就のための働きであり、活動が、合楽示現活動という事なんです。
ですから、どうでも合楽という言葉を使わなければね、示現活動という事になってこない。教団では、今、あらゆる時に、あらゆるそういう意味の言葉を使う時に顕現するという言葉を使ってあります。お道の信心、教祖の信心を顕現する。顕現する。所謂、現わすという事なんです。これは。顕現。素晴らしい言葉ですけれども、それは、ただ現わすだけなんです。人間が現わすだけなんです。
ところが、示現というのは、皆さんにいつも話しておりますように、神仏が、言うなら、神仏がです。先に立って、神仏が、不思議な働きを示し現わす事だという事なんです。だから、人間が現わすんじゃないという事。だから、例えば、神仏がです。そういう不思議な働きを現わしなさるのだけれども、そんなら、神様だけでは現わしなさる事はできないという事。
やはり、私共は、神様のお働きにあずからしてもらう。参画させてもらわなければならないようにです。その参画を願う氏子に、又、神様が参画なさらなければ、氏子の働きにあずからなさらなければ、その示現活動という事になってこないという。関わり合いにあるのです。合楽示現活動というのは、そういう働き、そういう事が表現された言葉が、合楽示現活動なんです。
神様だけは。神様もです。人間が、例えば、本気でそういう働きに参画さして下さいという願いを持った。そういう今日の御理解で言うならばです。「芯なければ」という。その氏子に、その芯ができるところからです。これに、神様が働きかけて下さる事ができる。神様だけではどうにもできん。人間だけでもどうにもできない。所謂、お道でいう「あいよかけよ」という事になってこないとです。示現活動になってこないのです。
そこで、なら、合楽で、ささやかな、その示現活動が起こされておる。それは、最近私が思いますのは、まだ合楽の信者全体が、それこそ、火の玉のようになって、合楽示現活動に参画さしてもらわなければならんのです。けれども、まだ、私が言い出して、ようやく一、二か月のところですから、皆に徹底していません。けど、一部の方達が、それこそ熱烈な示現活動に参画なさっておられる。参画さしてもろうて、その活動を、日々続けておられる方がある。電車の中であろうが、バスの中であろうが、合楽で、おかげを受けた話。合楽で、皆さんがおかげを受けておられる事実とね。言うならば、宣伝をしておられる。話をしておられる。だから、そういう宣伝を受けた方達が、お参りして来るとではなくてです。そういう働きが始まったら、今、合楽で起こっておるようにです。もう思いもかけない人達が、どんどん集まってきておるという事です。
だから、あの人からお導かれたからお参って来よるではなくて、そういう示現活動に参画しとる、一つの大きな生き生きした働きにです。神様が働いて下さるという事が、分かるでしょう。
お話を頂いたから、お参りして来たというのじゃなくてです。言うなら、神様が先頭に立って、その示現活動に参画。言うならば、先導なさっておられる。それに、私共はついていこうという。参画させて頂こうという気持ちがあった時に、初めて、それが、一つの光ともなるわけなんです。
昨日、私とその教会の先生との話じゃないですけれども、今の本部には、その光がない。【 】人は助からない。何とか、合楽で言うておられるところの示現活動に参画するという事は、教団人全部の者がです。このいうなら、活動。それが、運動ともなって、そういう一つの運動に参画さしてもらう事にならなければ、今の教団は、言うなら、ますます衰微をたどるだけだと言われる。私も、ある意味で、共鳴さしてもらう。神様にお届けさしてもらいましたら、ちょっとど忘れしましたが、公卿様布教という意味の事を頂きました。お公卿様ですね。しかも、私が心神に拝むのは、もうやせ細った品の良い、何ですか。女の節句の桃の節句の時に飾ります。あのお雛様のね、ヌペーッとした、色の白い、ああいうね、それも、やせ細った。公卿さんを頂きましてね。ああ、公卿様戦法と頂きました。布教ではなくて、公卿様戦法。それから、御理解に、後醍醐天皇の時代ですかね。足利尊氏が謀反。それに、楠正成という武将が選ばれて、それにあたられた。
あれは、後醍醐天皇が、お夢の中で、楠の木の下に宿っておられる夢を頂かれた。それで、楠という姓を探せと言うて、楠正成が、その事を願われたという事であります。
そこで、正成、大変武将であると同時に、知勇拳万の名将と言われる人だったそうです。それで、都に馳せ登りましたから、言うならば、いろいろな戦争の駆け引きというか、戦争の打ち合わせがあった会議があった。だから、その時に、楠正成が進言した事はですね。これはどうも夜討ちですね。夜の戦争にしなければ、こちらの人数が少ないから駄目だという事を進言した。ところが、上層部の、言うならば、公卿様連中がですね。いやしくも帝の軍勢がね、夜討ちをするなんてことは卑怯だと。だから、そういうことはいけないと言うて、猛反対を言うた。だから、負けるとは分かりながら、あの戦争に参加したという事にですね。
問題は、戦争するからには、勝たなければならない。勝つという事が。問題は勝つという事なんだ。そのためには、やはり、夜討ちでもしなければならない。あらゆる機略に富んだ方なんですね。千早城の戦争の時でも、大変な、わずかばかりの味方の軍隊で、大軍を悩ましたという話が、残っとりますように。
非常に知恵の多い武将であった。けど、自分の進言が通らないから、負ける事が分かっておって、戦争に参画したというようにです。今の金光様の場合は、丁度公卿さんのような戦法でいってるわけです。私は、これを頂いてから、これはどうでも、今の教団に、この御理解ば聞いてもらいたいと、しきりにそれを思いました。
今の生き方は、金光教の生き方は、本当に公卿様戦法だと。だから、頭が。言うとる事は、筋も通って、立派なんだけれどもです。なら、いつも負けてばっかりおるということです。問題は、お道の信心はです。人が助かる事さえできれば良いのである。どういう方法を【 】でもです。御霊様を拝むとか、例えば、指圧的な事で、どんどん御非礼を頂いておる教会がありますよ。それは、金光教的じゃないとか何とか言って、批判非難が、金光教じゃないとすら言われるような言い方としておりますけど、問題は、それで助かっとれば、それで良いじゃないか。お道の信心は、まず助かるという事なんだ。戦争が、勝たなければならないように、金光教の御信心は、助からなければならんのだ。助かるという事なんだ。
昨日、その先生に、私が、今、合楽でいろいろの奇跡が起きておる話をいろいろしましたら、もう、たまがってしもうてから、本当に教祖様の時代に、そういう、言うなら、奇跡が続出した。今の金光教でも、奇跡なんていう言葉すらがなくなってきた。
四、五日前に、何というか、目の視覚の筋が、三本切れた。それで、目が見えない寸前になった。奥さんが昔、ここに参って来よったから、それこそ泣き泣き、お願いに来た。そしたら、三、四日してから、昨日一昨日です。御礼に出てみえた。「おかげで見えるごとなりました。目のお医者さんは、そげなことは絶対ないとおっしゃるけど、見えることだけは、事実なんです。だから、明日からお勤めに出ますから。」と言う。「お勤めにでます。」ちゅうてから、「いっぺん、お礼に出て来じゃこて。」と言うて申しました。
そういう話を聞いたら、今の金光教の人達はびっくりしますよ。けど、事実なのですからね。問題は助からなければならない。私の御理解を頂きながらです。言うならば、楠正成である。楠という事は、信心も楠太りでなからにゃならんと言われる。どんどん大きくなる。しかも、正成。正しく茂っていく。お道の信心がです。楠太りに大きくなって、しかも、それは、正しく茂っていくおかげになっていかんならんためには、今、合楽で唱えておられるところの、合楽示現活動に本部自体が、参画なさらなければいけないという意味の事でございました。
ですから、今日の御理解を頂いてです。「火がともらねば、世界は闇なり。」今こそが、闇の夜である。その闇の夜に光をともすのは、合楽の信心。合楽の信奉者だというくらいな、皆さんが、自負を持ってです。所謂、合楽示現活動に参画さしてもらわなければならない。しかも、その光をです。所謂、光の輪、光輪の世界。それを、世界に広めていかなければならない。闇の夜から、世界がです。それこそ、夜明けのおかげになってこなければならない。昼の世界になってこなければならない。
そういう意味でです。今の合楽示現活動というのが、そういう大変な意味を持っておるものだという事をです。お互いが、分からして頂く。皆さん自身が楠正成。楠太り、正しく茂っていく。
病気をしとる者は、まず、全快のおかげを頂かなければならない。お金に困っている人は、お金には不自由せんというおかげを受けなければならない。人間関係で悩んでおる方達は、本当に争いのない、所謂、真、喜、美の世界に住まわなければならない。
そういうおかげを、生き生きと現わして、しかも、それを外に転じていくという働き。芯はあっても、情熱がなからなねば、火はともらない。芯なければという芯を、信心の信と書いてある。そこんところを、私は信じて疑わない。おかげを頂くのと同時にです。言うならば、光をともしていく。自分の周囲を明るくしていく運動。言うなら、活動。それを合楽示現活動というふうに、聞いて頂いとります。だから、それに本気で参画さして下さいという願いを持たなければいけんのです。願わにゃいけません。一部の方達は、皆願っておられます。
これは、合楽の信奉者の全部が願わなければいけない事です。どうぞ、参画さして下さいと。いつ、自分の周囲に、難儀な人と巡り逢うか分かりません。その時にです。お話の一つ、できるだけの、言うなら、おかげも勉強もできるだけの姿勢というものができとかなければいけないという事であります。なら、決して公卿様戦法、公卿様の生き方がいけないわけではありません。
言うなら、それを教学的な頭の信心と申しましょうか。頭の信心もなからにゃいけませんけれども、楠正成のようにです。本当に実力を持った、戦えば必ず勝つ自信を持っておる。そういう人もあいまって、今の金光教には求められとる時であります。だから、合楽は、どこまでもです。公卿さんじゃなくて、どこまでも楠正成の軍勢に参画さしてもらうというような信心が、合楽に願われ求められておるのだというふうに思います。
どうぞ、本気で一つ、合楽示現活動に参画さして頂いてです。愈々、世界が闇であると言われる、その闇の世界を、今こそ、本当に闇の夜だと思います。その闇の夜を、明るくする事のための姿勢をつくって、おかげを頂いていきたいと思います。どうぞ。